2013年3月25日(月)アメリカ放浪記Pt.6

マイルス・デイヴィス。その名前の響きを聴いただけで僕はドキドキする。自分のスタイルを「壊し」そしてまた「今」聴こえている音を表現した天才、マイルス。僕は幸運にも同じ時代に、生きているマイルスを何度か目撃した。初めてマイルスをエクスペリエンスした時、新宿の厚生年金ホールの2階席。隣席にはその馬淵の祖母がいて、1階席には本田竹広ファミリーがいた。そう、あの音楽宇宙を僕らは同じ空間で一緒に体験していたのだった。それからしばらく経って、僕がアメリカ西海岸で生活していた頃、晩年絵画を描いたマイルスもアトリエのあるビーチに住んでいた。そう。ハリウッド近くのでっかい公園「グリフィス・パーク」の天文台から観る夜景はLA名物のひとつ。その公園内の野外会場「グリーク・シアター」で観た、その珍道中の旅をした親友とLAで初めて聴きにいったコンサート、それはマイルス・デイヴィスとミルトン・ナシメント(ブラジルのスーパースター)のジョイント・コンサートだった。チケットはなんとっ15ドル!新聞でコンサート情報を見たその親友が「これ〜、フィルム・コンサートかなんかじゃないの〜?・・・」と疑ったほどだった。当時僕の暮らしたアパートからもそう遠くないRedondo Beachレドンド・ビーチに「Strandストランド」というライヴハウスがあって、そこで僕はたくさんの貴重なライヴを観た。200〜300人ほどしか入らないスペースでマイルスを体験した時間。それだけでもLAへいった甲斐がある。当時マイルスはプリンスとの交流が盛んな頃で、バンドのサウンドもFUNKしていた。その頃マイルスは必ずと言っていいほど、2曲目にブルースを演奏した。あの独自のブルースだ。ピアニッシモに近いバンドの音にマイルスのミュートしたトランペットのサウンドが聴こえてきた。とても繊細に。客席では、まだ会話をしながら聴いている様な空気があり、一瞬その話し声よりもマイルスの音が小さくなった、その時っ!そう。黒人達だ。男も女も、ある客席に居た黒人達数人が唇に指をあてる様にして「シーっ・・・」。静かに!たった今マイルスが吹いてるのだ・・・すると、その「シーっ・・・」が瞬く間に広がり会場は一瞬、静寂につつまれた様だった。聴こえてくるマイルス。鳥肌がたった。

[136]  (2013/03/25 Mon 09:12)

2013年3月20日(水)アメリカ放浪記Pt.5

Pt.1から読んでください。の。←青森風

やりたいことの「や」の字も、やりたい音楽の「お」の字も、とにかくあの頃のLA時代の僕は何にも表現できなかったのでした。「焦ること」それは若さの特権だ、と励ましてくれた恩人がいたっけな。そう。思い出すと二十歳ハタチの僕は焦っていました。何故でしょう・・・レストランや、その後ある韓国人女性がオーナーであった白いピアノが置いてありカクテル・ピアノが流れる、いわゆる「クラブ」でウェイターやバーテンダーのまね事みたいな仕事をして働いてアパートの家賃を払っていた。その頃宛てた祖母への手紙、何故だか何を書いたかおぼろげに憶えています。『前略おばあちゃま。元気にやってはいます。けれど音楽がやりたくて、その勉強がしたくてアメリカへ来たのに、毎日、毎日ウェイターなんかの仕事ばっかり。ちょっと嫌になります。でも、やりたいことができない毎日、言い換えれば、やりたくないことをしているこの毎日を生きていると、「本当にやりたいこと」がハッキリとしてきました。』・・・みたいな手紙。祖母からの返事、葉書が届きます。『貴方のそのやりたいことができない毎日〜という言葉に感服いたしました。』・・・馬淵通夫というホリスティック医学の草分けであり、実はコテコテの東洋医学の医者の伴侶であった祖母。著書『粗食のすすめ』で多くの自然食愛好家に知られる幕内秀夫氏もかつては馬淵の祖父の療養所「みどり会保養所」の一員でした。幕内さんのホームペイジかブログを拝見して馬淵の祖父・祖母の昔の本を紹介してくださっていたのを発見した時にはとっても嬉しかった。考えてみればホリスティック医学の中心的人物、帯津良一先生やアンドリュー・ワイル医師のご本の翻訳者でありご自身の著書でも知られる上野圭一氏そう上野圭一御夫妻とのありがた〜い不思議なご縁も、祖母なしには語れないのでした。そう。「宇宙の摂理」とか「宇宙の流れ」とか、そんな言葉のフレーズが僕は大好きだ。ワイル博士やジョン・レノン&ヨーコたちの影響は大きい。でも『そんなこと・・・宇宙の大きさに比べたら・・・』という僕らが安心する大好きなフレーズ、それは馬淵の祖母のフレーズなのでした。つづく・・・

[135]  (2013/03/20 Wed 08:50)

2013年3月16日(土)アメリカ放浪記Pt.3

そしてピアニスト本田竹広のことをよ〜く知っている親友と「ね〜今度の温泉旅行だけんど、ちょいと趣向を変えてアメリカ・ライヴ聴きまくりーの旅にするべ」と意気投合な感じでNY〜サンフランシスコ〜LAと超珍道中なおかしな旅をして、親友が帰国した後(コーヒーも一人で買えないくらい英語が喋れなかったシャイな二十歳の)僕が最初に一人暮らしを始めた場所はロサンジェルスのサウスベイエリヤ『ガーデナ』という町でした。そして音楽活動やその勉強を始めるスタートラインにすらなかなか立てないつら〜くて苦し〜い、しかし遅れてきた僕の青春アメリカ西海岸ひとり暮らしな物語がはじまるのでした。車がなくては移動すら難しいLAでまず最初に取り組んだのはドライヴァーズライセンス取得へ向けてのお勉強&運転練習。このことばかりでなくその頃僕のことを全面的にサポートしてくれたのがホームステイしていたFamilyの(僕のLAの母)Yokoさん。海の物とも山の物とも全然わからないこの僕を家族の様にむかえてくれた。カリフォルニアでもやはり助手席に免許取得者が乗れば運転の練習ができる。ある公園の広場へよく練習にいった。僕が運転していると助手席から突然!「あー!冬太っ、だめだめ、左・左・ひだりーーー!」と叫びながら腕を右・右・みぎーっと動かすのでした。そんなYoko迷教官、いや、もといっ名教官のおかげで何度も左側の植木やサイド・ウォークに乗り上げグワッタングオットンしたことか・・・苦笑。そしておかげさま数週間後ライセンスGet!レストランで働きながらやっとこさ自分で運転してライヴを聴きにいくことができる様になったのでした。渡米直前まで僕が日本で聴いていたライヴは本田竹広や峰厚介たち。その2人も当時一緒だったベーシスト、ポール・ジャクソン(ハービーハンコックHeadHuntersのメンバー)達のJAZZ。そのほか世界中探しても聴けない素晴らしいライヴばかり。そんな僕がLAの新聞や音楽誌を調べて聴きに行くライヴは何を間違うのかコメディみたいな舞台・・・苦笑。本物の音を求めて来たはずなのにと半泣き。その後西海岸でよ〜いライヴを聴くまでには数ヶ月かかった。いや、しかしハッキリと言える事はメディアには取り上げられないけれど、素晴らしいミュージシャンが日本のジャズ界には星の数ほどいるということなのでした。つづく・・・

[133]  (2013/03/16 Sat 12:00)

2013年3月15日(金)アメリカ放浪記Pt.2

ああ、本田さん。貴方のことを想わない朝はありません。世界中を魅了したピアニスト本田竹広。日本中のジャズ・ファンが熱狂したフュージョン時代の幕開けを飾りその中心的存在であった本田竹広・峰厚介たち『ネイティヴ・サン』解散まであと数年・・・という、それぞれがソリストとしての音楽活動も盛んな、言い換えれば肉体的にも精神的にも、そして音楽的にも最も元気な時代の本田竹広という人のそばに弟子の様にローディーとして幸運にも僕はいられたのでした。松谷冬太14歳、中学2年生・・・本田竹広Pf井野信義Bass日野元彦Drs(トコさんの愛称で愛された、日野皓正氏の弟であり今は亡き偉大なドラマー)この3人のトリオのライヴを聴きジャズの洗礼をうけてから・・・数年後、僕は本田竹広の音楽世界の門をたたき毎日の様に会いに行ったのでした。本田竹広、底抜けにハッピー、酒は焼酎・底なし・・・Native Sonの1stアルバムのライナーノーツにそうあった様に当時の本田さんの呑む酒の量はぼくらの基準の遥か彼方・・・笑。そう、晩年の約10年間人工透析しながら命をかけて演奏するその時までは・・・。今振り返って多くのピアニストと話しをしてもわかる様に、当時の日本ジャズ界でピア二ストを志す殆どの人が本田竹広の演奏活動から目が離せず、そして多くの人が「あの人のように黒く、そしてあの世界的なサウンドでピアノを弾きたい!」とハングリーにグローリーに願い精進したのでした。そう、その頃の僕のまわりには世界的で一流と言われるピアニストが何人もいたにも関わらず、もうほかのピアノは聴けない状態で本田さん一色。そんなひとに「おまえ・・・うたえよ。アメリカの黒人達のリズムや言葉あそびを吸収してきなよ・・・」半ばギタリストを志していたけど歌が好きだった放浪癖のあるマツヤが憧れの本田竹広にそう言われて、旅に出ないはずもありませんでした。

Native Son野外Live!本田竹広貴重映像発見!必見よ!
トップ・ペイジに貼り付けるか。の。

つづく・・・

[132]  (2013/03/15 Fri 07:49)

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